About Us

NWAがパキスタン最北部カラコルム山脈の麓で活動をすることになったきっかけは、1974年に遡ります。第三次印パ戦争1971年が終結して3年目から、パキスタン北部のごく一部へ外国人の入域が許可されました。1974年6月、日本から女性ばかり4人でギルギットの町から一番近くて目立つ山、ビルチャード・ドバニ  6143mを目指したのですが、「女性ばかりで辺境に行くなどとんでもない。危険である」として政府からは足止めを受け、山の麓へまでも行けませんでした。しかし、帰国までの約1か月間はギルギットやフンザ、ナガールの村々で過ごし、その合間に見た村の女性たちの悲惨な生活には胸が潰れました。村の女性たちに「子供を何人産みましたか? いまも元気に育っている子供たちは何人ですか?」という単純な質問を繰り返して得た答えは、概ね生存率が50%というものでした。それまでの私は登山のことしか頭にはなく、家畜と変わらない小屋のような家々で暮らす人。日々、食べる物もない貧しい生活や自由が一切ない女性たちの生活などを想像したこともありませんでした。生まれてから一度も風呂に入ったことがない家畜と変わらないような女性たちが、子供を亡くしてお墓の前で泣き崩れているのを見て、この人たちも同じ人間なのだ…という当たり前の思いに至りました。そして、乳幼児の死亡率はわずかな気遣いで下げることが出来るのに…と、思ったことが母子保健センターの設立を思いつかせました。とは言え、思い付きから実際の設立までには紆余曲折、最初の取り組みは1981年、パキスタンに移住して直でしたが、日本的な考え方や方法は現地の人々に受け入れられることはなく、2年もしない間に挫折、敗退しました。そして本格的な取り組みは1999年からであり、2001年には北方地域でNGOの登録が正式に出来ました。




さらには、2004年に子供平和基金とJR総連のご支援を受けることが決まり、立派な母子保健センターの建設が決まり、皆様のおかげで2008年に2階建てで7教室、保健室、栄養指導のための料理教室、教職員室、事務室。日本から現地で協力して下さる人たちのための宿泊施設を備えた立派なセンターが出来上がりました。



督永の父親は「他人のお役に立って一人前」と言い続けました。山登りにしか興味がなく、世の中には困窮している人がいることも知らず、遊んでばかりいた若いころの督永を遠回しに批判していたのだと、今では理解が及びます。ボランティアは出来る者が、出来るときに、自分の出来ることをすれば良いのだという気の長い「姿勢」になったお陰で、活動が当初から数えると30年も続いています。


ヘラルド・トリビューン(英字新聞、国際版)2016年4月15日(金)にNWAの活動が掲載され、この20年間で1万人の修了生を送り出したことが紹介されています。



Founders Background

督永は1974年からパキスタンに関わり、81年に移住。以来37年間をパキスタンで暮らして来ました。パキスタン人の持つ熱いホスピタリティだけではなく、毎日がスリルとイライラの連続。日々、新しい発見に今もワクワクしながら暮らしています。自分的には、たまたま日本に生まれたけれど、前世はパキスタン人だったであろうとまで思っているのです。

しかし、パキスタンへ移住はしたものの誰からの援けもなく、生活の足場もなく、言葉も充分に出来ず、前途の見えない気分は難民そのものでした。たった一つ、難民と異なるのは、逃げて帰れる日本という安定した有難い国があったことでしょうか。異国で誰からの助けもなく、自分自身が難民にも似た立場であったこと。それだけに天災などで被災された人々の気持ち、アフガン難民や大陸から引揚げて来られた方々の気持ち、虐げられた女性たちの立場が解る、それが支援活動の原動力になっているのかもしれません。

「緊急以外には物を配らない。物を配るだけではない支援を」
「被災された人々や難民をスポイルしないための支援を」
「物をあげるやさしさより、あげないやさしさを」
「自立・自活のための支援」を口やかましく言うのは、ほんのわずかな手助けがきっかけとなり、生活にメドがつくことをわが身で知ったからかもしれません。特に、自分が辛かった時に、こんな支援があったら嬉しいだろう、助かったのにと感じた事柄などを。現地で暮らす者としての目から見た支援を、今後も心がけたいと考えています。

督永忠子:日パ・ウェルフェアー・アソシエーション現地責任者、日パ旅行者代表、旅行、登山、テレビ取材コーディネートの他に宿泊施設の経営。 アフガン難民への支援、パキスタンでのボランティア活動など母子の健康管理、健康相談を行う「母子保健(栄養指導)センター」や、職業訓練・識字教室を運営している。


督永忠子の著作
『オバハンからの緊急レポート』(創出版、2002年、日本ジャーナリスト会議(JCJ)賞受賞)、
『民宿シルクロード 今日も開店休業大忙し』(合同出版、2003年)、
『パーキスターン大地震 バケツ一杯の水からの支援』(同、2006年)

顧問、田城郁からのご挨拶


2001年911同時多発テロの直後からJRUからアフガンやパキスタンへ派遣され、現地での復興支援活動に携わってまいりました。日本とは大きく異なる現地の厳しい環境の中で学校建設、井戸掘り、植林、未亡人のための自立支援を約8年間を過ごし、パキスタンでは2004年より、自由に医者への行くことも出来ない女性たちのためにと母子健康センターの設立と、運営に関わって来ました。 また子供たちを初等教育から落ちこぼれさせないためにと、様々な活動を支えて来ました。
それら数々の支援は皆様方からの熱いご支援で支えられています。 そうした後支援に深謝申し上げるとともに、今後ますますのご支援を賜りますように、ここでお願いを申し上げます。




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